風の彼方へ

そして、いま、ここに在ること

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Posted by machiku on  | 

旅立ちの日 その4

KSさんとは、再会してから何度も話をする機会がありました。
KSさんの麻原さんに対する気持ちは、
教団にいた頃とあまり変わっていないように見えました。
事件のことは別にして、麻原さんに関しては、
ずっと宗教的な指導者と見ていたという印象でした。

KSさんは、教団の最も初期の頃からいたひとりです。
また、麻原さんが逮捕される直前まで、
麻原さんのすぐそばで活動していました。
ずっと麻原さんのそばにいたのですから、
教団を離れたとはいえ、気持ちが大きく変わることがないのは、
当然といえば当然のことのように思います。

一方で、事件に対してどう考えていたかということは、
よくわかりませんでした。
再会してから、そういった話を一切する機会がなかったからです。
状況が状況だったので、
そういう込み入った話をすることはありませんでした。
いま思えば、その点はちょっと残念だったように思います。

じつはKSさんが麻原さんのことをどう思っていたかということも
あらためて話をしたことはなかったように思います。
でも、とても印象的なエピソードがありました。
それはホスピスに入院していたときのことでした。

KSさんが入院している病室のドアには、
小さなガラス窓がついていて、
外から中の様子がうかがえるようになっていました。
私がKSさんの病室を訪れるときには、
ドアをノックする前にまずその窓から覗いて、
中の様子を確認するのが習慣になっていました。

その日も、ノックをする前にその窓を覗いていました。
するとドアの正面の窓際に置いてあるテレビの画面に、
そのときはまだ教団にいたJさんが映っているのが見えました。
KSさんは、病院の人たちに自分の経歴などは
明かしていませんでした。
そこで私はすぐに扉をあけて、彼女のそばにまで行って、
「外から見えている」と小声で伝えました。

私はてっきりKSさんが、外から見えていることに気づかずに、
DVDか何かを見ているものと思っていました。
しかし、それは勘違いで、彼女の見ていたのは、
リアルタイムで流れていたニュース映像だったのです。
彼女はテレビのすぐ前に椅子を置いて、座って見ていたのですが、
私に向かって、「大丈夫。これはニュースだから」
といって、またテレビに見入っていました。

その頃は、私は教団にほとんど関心がなかった時代です。
情報を入れてなかったので知らなかったのですが、
ちょうど教団が分裂する直前の頃だったようです。
それでJさんがインタビューを受けていたのでしょうが、
KSさんと一緒に観ることになった彼の話は、
事件以外の麻原さんの考え、やってきたことまでを
否定するような内容でした。

それを聞いていたKSさんは、テレビの中のJさんに対して、
「それはまちがってるよ。君の考えはまちがってる」
と、ハッキリした強い口調で話しかけていました。
それがまるで、目の前にJさんがいるかのような話しぶりで、
強く印象に残りました。

そんな姿を目の当たりにした私は、
KSさんは麻原さんに対しては、
深く信頼を持ち続けていたんだなと感じたものでした。

その一方で、教団に対しては、不信感のようなものを
持っているような印象を受けました。
それは私への気遣いから感じたことです。

その頃、KSさんは、最後のお別れをするために、
今生、縁のあったいろいろな人を病室に呼んでいました。
その中には、教団に残っている人たちもいましたが、
「彼らと話をしても不愉快になるだけだから」
といって、私が彼らと鉢合わせになるのを、
意図的に避けてくれていたようなのです。

なぜ不愉快になるかは、理由をハッキリと
聞いていないのでわかりません。
ここからは私の推測になりますが、これは現役と元を含めて、
教団に関わった人たちには、「自分が一番正しい」と思う一方で、
「自分とちがう道を歩いている人はまちがっている」という、
単純な発想をする人が多いからではないかと思います。

こんな風に、自分とちがう相手を受け入れることができないと、
無意識のうちに、その態度は相手を否定することになります。
そうなると、ちがう道を歩いている人と話をした場合には、
相手は当然、よい感情を持てないのは自然なことです。

また、当時はいわば、教団の分裂が
リアルタイムで進んでいたときです。
教団内部にいた人たちは、とくにピリピリしていたことでしょう。
その排他的な心が、ときおりKSさんに向けられることもあって、
それが「不愉快になる」という言葉に
つながっていたのかもしれません。

KSさんは、こんなふうにいつも相手のことを気遣う人でした。
それは死を目前にして、自分自身が
一番辛い状況にある中でも同じでした。
私が見ていたKSさんは、最後までずっとそんな感じでした。
死を恐れている様子は、微塵もなかったのです。

しかし、そんなKSさんですが、こうやって
いろんな人を病室に呼ぶことを、ある時期からやめました。
それは彼女自身の身体が次第に弱ってきて、
自身の転生の準備のための時間を多く取りたかったからのようです。
それからもうひとつ、KSさんのご家族が、当たり前のことですが、
オウムのことをよく思っていなかったことも大きかったようです。

KSさんは東京都の出身です。
ご家族の知人や友人の中には、地下鉄サリン事件の
被害者の方もいたようで、脱会した彼女が
教団関係者と少しでも関わることは疎まれていたようです。
私の印象では、ご家族の方々には彼女の人生の多くを奪った
(と思っている)オウムとは、ほんの少しであろうとこれ以上の
関わりを持って欲しくないという気持ちが強いようにも感じました。

とくに否定的だったご家族の一人は、じつはKSさんよりも先に
ガンを患っていたということです。
発症はKSさんのほうが遅かったのですが、若かったので進行は早く、
結果的にこの方がKSさんを看取る形になったのでした。

そんな状況だったので、KSさんが希望していた
遺骨の散骨も実現は不可能でした。
ご家族の方は、自分が信じる方法で「供養」をしたかったようで、
KSさんが「せめて半分だけでも散骨させて欲しい」と頼んでも、
願いは最後まで聞き入れられることはありませんでした。

そんなこともあって、KSさんはある時期から、
病室へのオウム関係者の訪問をストップさせました。
そのことに関してKSさんは、「もう最後の挨拶はできたから」
と、さばさばと話していました。
私に関しては、その時点でオウムとまったく関わっていなかったので、
最初は問題なく面会することができました。
散骨を頼んでいたくらいだったので、KSさんの希望では、
私にはお葬式にも参加してほしかったようです。
しかし、ご家族の方が頑なで、
最後まで首を縦に振ってくれませんでした。
そんなこともあって、最後の方は、
ご家族と鉢合わせにならないようにKSさんが時間を指定して、
そのタイミングで病室を訪れるという形になりました。

しかし、KSさんの体がどんどん弱ってくると
そういった配慮をすることさえも難しくなったようです。
そのため、最後の数週間は、
KSさんに会うことができなくなっていました。

そんな頃、KSさんからもらった最後のメールには、
「これから、ホスピスのイベントで
ボランティアの人たちや患者さんたちとケーキ作りを行います。
ささやかな楽しみです。」
といった内容のことが書かれていました。

おそらくは、まだ生きていますよ、ということを
知らせるために打ってくれたのだと思います。

しかし、いつもは長文のメールが多かったのに、
このときはかなり短いメールだったので、
体が相当に弱ってきているのかなと感じたりもしました。
このメールのとおり、ケーキ作りに参加したとしても、
車いすでの参加が精一杯だったのではなかったかと思います。

そして、そのメールから一週間も経たない頃です。
私のまわりで、また不思議なことが起こったのでした。

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Category : KSさんのこと
Posted by machiku on  | 8 comments 

旅立ちの日 その3

KSさんとは、私の自宅に来てもらったのを最後に
しばらく会っていませんでした。
メールもその後は、10日あまり途切れていました。
その頃、不思議なことがありました。

それはまだまだ、ジリジリとした夏の暑さが残っている頃でした。
自分の部屋にいたとき、いきなりパンッという大きな音がしたのです。
振り返って見てみると、ただそこに置いていただけの瓶が、
何もしないのに割れていました。

その瓶には、きれいな色の液体が入っていました。
それはちょうど、KSさんが我が家に来たときに、
「きれいだね」と言っていたものだったのです。

それを見てすぐに、KSさんになにかあったのではないか
と思いました。
何か別の存在が、KSさんの異変を私に知らせてきたような、
そんな気持ちになったのです。

胸騒ぎがしたので私は、急いでKSさんに電話を入れてみました。
しかし、電話はつながりませんでした。
そこで次に、メールを入れてみました。

「ご無沙汰していますが、体調の方は大丈夫ですか。
なにか変化がありましたら、すぐに連絡をください。」

メールの内容は、こんな感じだったと思います。
やはりというか、返事はすぐには来ませんでした。

何もしていないのに粉々になってしまったガラスの破片を
拾い始めたときに私は、
もしかしたらKSさんは、いつもとても気丈な態度に見えたけど、
その心の奥底では、孤独感を感じていたのではないのだろうか、
と思いました。

そして、もしかしたら、そういった孤独感によって
体中に病気が蝕むことを許してしまったのかもしれない、
と思ったのです。

KSさんが、私に出会うまでは、
病気を治すことに専念していたと聞いてはいました。
だからそのとき感じたことは、私が彼女からの、
一緒に喫茶店をやろうという提案を
むげに断ってしまったことへの
自責の念から出てきたことかもしれません。

いずれにしても私は、突然割れたガラスの破片を片づけながら、
そんなことを感じていました

それから三日ほど経って、
ようやくKSさんから返信メールが来ました。

「バタバタしていて、返事が遅れて申し訳ありません。
ちょうど連絡をもらったときは、意識不明となって倒れてしまい、
救急車で運ばれていたときでした。
いまはホスピスに入院しています。」

といったような内容でした。

意識不明で倒れていたのに、
「バタバタしていた」と表現するところに、
KSさんらしさを感じました。
一方で、彼女がホスピスに入ったことに、
なんだか複雑な気持ちになったことを覚えています。

その数日後に、私はメールに書かれていたそのホスピスを訪ねました。
そこは都内のある大きな病院の最上階でした。

KSさんの病室は、とても清潔感にあふれていました。
窓からは、都内の街が遠くまで一望できる景色が広がっていて、
私が勝手に想像していたものより、
はるかに明るい印象を受ける場所でした。

そのときのKSさんは、なにか吹っ切れたような落ち着きと
明るさを醸し出していました。
それはとても余命数ヶ月ということは想像ができない姿でした。

KSさんは私の顔を見て、
「あまりにタイミングのいいメールにビックリした」
といいました。

そこで私が
「あのきれいだといっていた瓶が割れて、
誰かが知らせてくれたんですよ。」
というと、さらに驚いた顔をしていました。

そんな話から始まって、次第に
KSさんの状態についての話になっていきました。
そのとき彼女は、

「手術はもうやらないことにした。
手術をすればあと半年長く生きられるといっても、
身体が衰弱して管だらけで生きていないといけないらしい。
そうまでして生きていたいとは思わない。」

そして、

「そのときが来たら、もう延命治療はやらないということで
担当医には話をしてある」

といったような内容のことを、淡々と話してくれました。

そして次に、私に対して死んだ後のことを頼んできました。
KSさんの希望は、自分の骨を
富士山の見える場所に撒いて欲しい、というものでした。

私は二つ返事で承諾したのですが、
残念ながらそれは実現することがありませんでした。

Category : KSさんのこと
Posted by machiku on  | 2 comments 

旅立ちの日 その2

KSさんとはメールで何度かやりとりをした後、
表参道の、ある自然雑貨屋さんの喫茶室で会うことにしました。

ハーブティーをメインにしているその喫茶室は
飾り気がなく、とてもシンプルなレイアウトのお店でした。

その喫茶室の片隅の席に着くやKSさんは
「こんな感じの喫茶店がやりたかったんだよね」
と、つぶやくように言っていました。
その言葉が印象に残りました。

じつは、そこからさかのぼること数年前に、
「一緒に喫茶店をやらないか」という話を
やはり人づてにKSさんからもらっていました。

そのときはあれこれ考えて、断っていました。
喫茶店をやるとなると、調理や掃除の他にも経理などといった
雑多なことをやらなければいけません。
そのどれをとっても、私にとっては苦手意識を感じるものばかりです。
逆にKSさんは、意外に思われるかもしれませんが
家庭的な一面を持っていて、
それらすべてを、とても上手にこなすことができる人でした。
それだけに、私ができることは何もないように感じて
お断りしたのでした。

久しぶりに再会したKSさんは、先ほどの言葉に続けて、
「教団から出てきた元サマナの人たちは
一般の社会の中では行き場が無いと感じている人が多いだろうから、
そんな人たちが、気軽に集える場所をつくりたかった」
といいました。
私はそのとき初めて、KSさんが喫茶店をやりたいといった
真意を知りました。
その言葉に、少しだけ胸が締め付けられるようになりました。
それはあのとき断ってしまったことへの後悔の念が、
少なからず出てきたからかもしれません。


そんな話から始まって 、話は何時間も尽きませんでした。
その中でKSさんは、その時点で
あと余命半年と宣告されていることを教えてくれました。
そして、自分の身の上に対して、こんなふうにも言っていました。

「医者からは、手術をすればもう半年ほど長く生きられると言われた。
でも私には、何かや誰かのために
少しでも長く生き続けなければという強い動機があるわけでもないし、
それよりそろそろ身辺整理の計画をしたほうがいいと思っている。」

さらに続けて、

「これまで病気を治す方法がないか、さんざん探したけど、
良い方法を見つけることはできなかった。
生きることに必死になって、何か方法を探し続けることと、
それとは別に、次の転生のために準備をすることの両方をすることは
私にはできないから、どちらかを選ぶことに決めた。
私は、これからは次の転生のための準備をしようと思う。」

と、こんな趣旨のことを話してくれたのです。

私は、生きることに必死になることと、
次の生の準備をすることの両方はできないというその言葉に
深く納得しました。
私も同じ立場だったら、まったくそう思うだろうと感じたからです。

同時に、KSさんのそのときの状況を想像して、
彼女の考えを理解してくれる人が周りに誰かいるのか、
ということが心配になりました。
KSさんは刑に服して世間に戻った後は、教団に復帰することなく、
そのときは実家のそばで一人暮らしをしているという状況だと
聞いていたからです。

オウムに身を置いた人に限らず、輪廻転生を信じているなら、
KSさんの気持ちはある程度、理解できるでしょう。
しかし、世間のたいていの人は、いま生きているこの生がすべて、
と考えています。
そういう人には、KSさんの考えは
とうてい理解できるものではないはずです。
も しもKSさんがいるのがそんな環境の中で、
一人黙々と次の生の準備を進めなければいけないとしたら、
それは精神的にかなりきついのではないかと感じたのです。

そこで私は、私自身がKSさんの理解者になろうと考えて、
KSさんのその考えに全面的に同意し、協力できることがあれば、
できるだけのことをするという趣旨のことを伝えました。

誤解のないように付け加えておくと、もちろんそのときの私には、
KSさんの死を望む気持ちなどみじんもありませんでした。
むしろできるかぎり長く生きて欲しいと思っていました。

ふつうなら、死を目前にしているというその状況だけでも、
肉体だけではなく、精神的にも相当にきついはずです。
そんな中で、まわりに誰も理解者がいないということは、
相当に辛いことです。
だから、少しでも気持ちが楽になる手助けになるのならと、
次の転生の準備をするための協力者になることを申し出たのでした。
これには彼女もたいへん喜んでくれました。

そして、その数週間後、KSさんは、そのときに住んでいた
私の自宅を訪ねてくれました。

その後、私は頻繁にKSさんと会うようになりますが、
その場所はあの喫茶室でも、私の自宅でもありませんでした。

そのあたりのことは、また次回に書きたいと思います。

Category : KSさんのこと
Posted by machiku on  | 6 comments 

旅立ちの日 その1

すっかり更新を怠っていました。
前回の記事で、ひとつの区切りがついたかなと思ったことで、
このブログから気持ちが離れてしまっていたからです。

その一方で、何人かの人に、ある出来事を
このブログに書くことを約束していたので、
そのことが気になってもいました。
そこで今回、重い腰を上げて、そのことを書くことにしました。

その出来事というのは、キサーゴータミー正悟師(事件当時)が 、
次の生へと旅立っていったときのことです。

おそらくは私は、元、現役を含めたオウム関係者の中で、
その瞬間に最も近いときまで彼女と接していた一人になるかと思います。

その旅立ちのとき、不思議な出来事がいくつかあったので、
それらのことを今生、彼女と関わりのあった人たちへ伝えておきたいと思い、
このブログに書きたいと思っていました。

ただ、すでに亡くなっているとはいえ、
彼女の名前を大々的に出すことには、なんとなく抵抗があります。
冒頭では、便宜上、ホーリーネームを書きましたが、
ここから先は「KSさん」とさせてもらいます。


KSさんが旅立ったのは、2007年の年が明けたばかりの頃でした。
享年は、52歳だったと記憶しています。

KSさんと私は、不思議な縁で結ばれていたようです。
じつは私が、初めて直接会ったオウムの関係者が彼女でした。
オウム神仙の会(当時)に入会するために、
渋谷の小さなマンションを訪れたとき、
入会の案内をしてくれたのがKSさんだったのです。

その翌年、私は出家した直後に、唐突な麻原さんの指示によって、
いきなり独房修行に入ることになりました。
しかし、これはまったく心の準備がなかった私には難題で、
そのときは10日くらいしか続けられず、
「独房から出して欲しい」と麻原さんに懇願していました。

この願いは受け入れられましたが、その頓挫した私に代わって
独房修行をすることになったのがKSさんでした。

私は直接には聞いていないのですが、 説法会かなにかで
麻原さんは当時、信徒さんたちに向かって、
「秋までに3人の成就者を出す」と約束していたということです。

当初はその候補者の中に、私も入っていたのかもしれません。
しかし、私が「無理です」と言い張ってしまったので、
KSさんには、迷惑をかけたとまでは言い切れない部分もありますが、
大きな負担をかけることになってしまったようです。

ところが、NHKのドラマのときには、その逆のことが起こりました。

NHKの方から聞いたところによると、じつは未解決事件のドラマは
最初、KSさんを主人公として制作したいという意向があったようです。
しかし、その時点で彼女はすでに亡くなっていたので、
その後、紆余曲折があって、私を主人公にということになったようです。

こういった諸々の経緯があったので、
私はKSさんとは何か深い縁があったのかなと、
そんなことを感じています。

とはいえ、私が1995年に教団を出てからは、
KSさんとも長い間、会ってはいませんでした。
再会したのは、彼女が亡くなる前の年の2006年です。

その頃、人伝にKSさんが、がんを患っていると聞きました。
しかも、そのがんはすでにあちこちに転移していて、
彼女自身、余命幾ばくもない状態で、
私にも「死ぬ前に会っておきたい」ということだったので、
すぐに会うことにしたのでした。

Category : KSさんのこと
Posted by machiku on  | 4 comments 
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